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通巻19号 平成18年9月15日発行 |
我が家の次女、りかは平成十一年六月十二日に、久留米市の産婦人科で誕生しました。体重は2,495グラムと、わずかに低体重児ではありましたが、元気に産声を上げて生まれてきました。上の子を出産した時よりも、はるかに分娩時間が短く、とても安産でした。
生後3日目までは、授乳時間にお乳をやり、抱っこしてあやしたり、家族や友人が面会に来てくれたりと、穏やかな産婦人科生活を送っていました。
けれども、生後4日目になって37度8分の熱を出しました。「病院で検査した方がいいのではないか」と、救急車で聖マリア病院のNICU(新生児の集中治療室)に搬送されることになりました。
生後5日目の我が子と涙の別れをしてから、1歳9ヶ月になるまで、長い入院生活が始まることになりました。
私は、里帰りをしていたので、実家に2歳半の上の子を預けて、毎日冷凍した母乳を持って面会に行きました。保育器の中には、見るからに弱々しい我が子がいて、口には酸素を流すためのチューブが入れられ、頬にはチューブを固定するためのテープの跡が何ヶ所もかぶれ、手足には点滴を入れるため、たくさんの注射の跡がついていました。
初めのうちは、ただただ泣いてばかりでした。面会時間は決まっていましたが保育器の穴から手を入れて、我が子をさするしかできない私を、看護師さん達はそっと見守っていてくれました。
色々な検査をした結果、疑いのある病名は、ルビンスタイン・テイビー症候群というものでした。約12万人に1人の発症率で、精神遅滞があるということでした。目の前が真っ暗になりました。毎日心の中で、信じたくない、辛い、ごめんね、いつまで苦しい日が続くの?という気持が繰り返されていました。
すると今度は、睡眠時無呼吸が確認され、気管切開という手術をしない限り退院する事は不可能だと告げられました。
気管切開をすると発語できなくなります。次々と襲ってくる試練を認めることができず、手術を先延ばしにしていました。
そんな私の思いを変えたのは、りかの成長でした。
日に日に看護師さん達を目で追うようになり、近づいてきてくれたのが分かると、足をばたばたさせて喜び、笑顔を振りまいていました。その姿を見て、早く家で家族と一緒に生活させる事を優先しようと決心しました。
手術後は私と主人が、ミルクを注入するため鼻にチューブを入れる事、聴診器でチューブが胃に届いている音を確認する事、気管切開部分にカニューレと呼ばれる器具を装着する事、吸引機を使って痰(タン)を吸引する事などの医療的ケアをマスターし、退院の日を迎えました。
退院してからは、どうやって上の子を幼稚園に送り出し、りかの分刻みの痰の吸引をしながら、毎日を過ごしていたのか思い出せません。その時は育児ではなく、看護の毎日を送っていたことは間違いありません。
退院できて嬉しい反面、今度は上の子へ十分な愛情を注いであげられていないことを悩んでいた時、カウンセリングの先生に教えて頂いた言葉で、もやもやしたものを吹き飛ばすことができました。『もし将来、上のお子さんが「あの時は寂しかった」と言う事があっても、その時は「寂しい思いをさせてごめんね、でもあの時は、お母さんも精一杯の力で家族のためにがんばっていたのよ。」と、きちんと話してあげれば、ちゃんと思いは伝わりますよ。』という内容でした。
それから、自分が前向きに明るい気持になれたのを、はっきりと覚えています。
3歳半になった時には、少しでも刺激を与えてあげたいと思い、田主丸のコアラ園に通い始めました。夏は特に体調を壊しやすく、休みがちになりがちですがりかにあわせた優しいリハビリをしていただきました。
今年の4月に卒園する3年の間に、酸素ボンベが外れ、カニューレが外れ、少しずつできる事が増え、危ぶまれていた歩行までもできる様になりました。
現在、養護学校小学部1年生です。
これからも、子どもの持つパワーを信じ、りかのペースを忘れずに子育てしていきたいと思います。
本当にたくさんの人に支えられ、助けて頂きました。
りかが元気に通学している今、障害児(者)に優しい社会の実現に向けて、私も学習し、活動していこうと思います。
ペンネーム/りかママ